建武の新政 🏛️
**建武の新政(けんむのしんせい)は、鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇(ごだいごてんのう)**が、天皇を中心とする新しい政治体制を目指して行った改革です。しかし、わずか3年で崩壊し、南北朝時代の始まりへとつながりました。
📌 改革の背景
鎌倉時代末期、北条氏による幕府政治に不満が高まり、後醍醐天皇は倒幕の計画を立てます。この計画は一度は失敗しますが、**足利尊氏(あしかがたかうじ)や新田義貞(にったよしさだ)**といった有力武士が天皇側につき、1333年に鎌倉幕府は滅亡しました。
幕府を倒した後、後醍醐天皇は武家政権ではなく、天皇が直接政治を行う古代的な天皇親政の復活を目指し、「建武の新政」を始めました。
📌 新政の内容と特徴
後醍醐天皇は、天皇の権威を回復し、公家(朝廷に仕える貴族)を中心に据えた政治を行おうとしました。
- 武家政権の否定: 鎌倉幕府の仕組みを廃止し、将軍や執権などの職を置かず、公家が政治の中心に立ちました。
- 新たな役職の設置: 政治の実務を行うため、「記録所」「雑訴決断所」などの機関を設置しました。
- 武士への対応: 論功行賞(ろんこうこうしょう)で恩賞を与える一方で、武士の所領に関する訴訟処理が公平に行われず、武士の不満が高まりました。
📌 なぜ失敗したのか?
建武の新政がわずか3年で崩壊したのには、以下のような原因がありました。
- 武士の不満: 鎌倉幕府滅亡に貢献した武士たちへの恩賞が十分でなかったり、恩賞の配分が公家中心になったりしたため、武士の間に不満が蓄積しました。特に足利尊氏は、武士の心を掴むことに長けており、天皇から離反する武士をまとめ上げました。
- 社会の変化への対応不足: 武士が台頭した時代にもかかわらず、公家中心の古い政治を目指したことが、時代錯誤とされました。
- 後醍醐天皇の政治手法: 天皇は自身に権力を集中させすぎ、有力な武士や公家の意見を聞き入れませんでした。
📌 新政の終焉と南北朝時代へ
武士の不満が高まる中、足利尊氏は後醍醐天皇から離反し、独自の武家政権の樹立を目指します。尊氏は京都を制圧し、後醍醐天皇は吉野(よしの)へ逃れます。
1336年、尊氏は新たな天皇を擁立し、京都に室町幕府を開きました。一方、吉野に逃れた後醍醐天皇も自らを正当な天皇と主張したため、南朝と北朝という二つの朝廷が並び立つ、南北朝時代が始まったのです。
📝 よくある質問
Q. 建武の新政は誰が主導しましたか?
A. 後醍醐天皇が主導し、公家を主な政治の担い手としました。
Q. 足利尊氏は、なぜ後醍醐天皇を裏切ったのですか?
A. 恩賞への不満や、武士の代表としての立場から、公家中心の天皇親政に反発したためとされています。

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