弘安の役 ⚔️
**弘安の役(こうあんのえき)**は、**1281年(弘安4年)に元(げん、モンゴル帝国)が日本を再び襲来した、2度目の元寇(げんこう)**です。この戦いは、日本史上最大規模の外国軍との戦いでした。
📌 襲来の背景
文永の役の後、元の皇帝フビライ・ハーンは再び日本への服属を求め、使者を送りますが、鎌倉幕府はこれを拒否し、使者を斬首しました。この強硬な姿勢に対し、フビライは前回をはるかに上回る大軍での日本遠征を決定します。
📌 戦いの経過
元は、江南(こうなん、現在の中国南部)と東路(とうろ、現在の朝鮮半島)から、合計14万もの大軍を日本に差し向けました。これは、当時の世界でも類を見ない規模の軍隊でした。
- 日本側の備え: 日本側は、文永の役の教訓から、博多湾沿岸に**防塁(ぼうるい)**と呼ばれる石造りの城壁を築き、元軍の上陸に備えていました。
- 長期戦: 元軍は防塁に阻まれ、上陸が困難になりました。これにより、一気に決着がつかず、戦いは長期化しました。日本軍は防塁の上から矢を放ったり、少人数で夜間に元軍の船を襲撃したりして、粘り強く抵抗しました。
📌 元軍の壊滅と「神風」
元軍の壊滅的な敗北は、暴風雨によってもたらされました。
1281年7月30日(旧暦)、博多湾に停泊していた元の大艦隊に巨大な台風が直撃。元軍の船の多くが沈没・大破し、多くの兵士が溺死しました。この暴風雨は、文永の役の時と同様に「神風(かみかぜ)」と呼ばれ、日本を救ったと信じられるようになりました。
元はその後も日本への遠征を計画しましたが、国内の反乱や財政難により実現することはありませんでした。
📝 豆知識
- **元寇(げんこう)**とは、文永の役と弘安の役の二つの戦いを総称した呼び方です。
- **「神風」**という言葉は、この元寇での台風の役割から、日本が神に守られた国であるという思想を生み出すきっかけとなりました。

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