天明の大飢饉:江戸時代最大の飢饉
天明の大飢饉(てんめいの だいききん)は、1782年から1788年にかけて日本を襲った大規模な飢饉です。**宝暦の飢饉(ほうれきのききん)**と並び、江戸時代で最も深刻な飢饉の一つとされています。この飢饉は、当時の社会に大きな影響を与え、幕政改革のきっかけとなりました。
飢饉の原因
この飢饉の主な原因は、気候の異常と天災が重なったことにあります。
- 冷害: 1783年、北日本の太平洋側は記録的な冷夏に見舞われ、稲作が壊滅的な打撃を受けました。
- 浅間山の噴火: 同年、信濃国(現在の長野県)と上野国(現在の群馬県)の境にある浅間山が大噴火を起こしました。噴火による火山灰が広範囲に降り注ぎ、農作物に深刻な被害をもたらしました。
- 長雨と洪水: 冷夏と同時期に長雨が続き、各地で洪水が発生し、さらに被害が拡大しました。
これらの自然災害が複合的に発生したことで、全国的な米不足となり、米価が急騰しました。
饉による社会の変化
飢饉は、人々の生活を苦しめ、多くの餓死者を出しました。また、飢餓に苦しむ人々は、各地で暴動や一揆を起こしました。
- 田沼意次政権の批判: 当時、幕政を主導していた田沼意次は、商業を重視し、農民への配慮が不足していると批判されました。人々は、飢饉を意次の政治に対する天罰ととらえ、彼の失脚を求める声が高まりました。
- 打ちこわし: 米価の急騰に不満を持った人々が、米を買い占めているとされる豪商や米問屋を襲撃する「打ちこわし」が頻発しました。
- 寛政の改革への道: 飢饉の混乱と意次の失脚後、松平定信が老中となり、幕府の財政再建と社会秩序の回復を目指す寛政の改革が始まります。この改革では、飢饉に備えるための**囲米(かこいまい)**の制度が設けられるなど、農民の生活安定を重視した政策が取られました。
天明の大飢饉が残したもの
天明の大飢饉は、幕府の政策転換を促し、後の寛政の改革へとつながる重要な出来事でした。また、飢餓と社会の混乱は、日本の社会構造の脆弱性を露呈させ、武士や農民だけでなく、町人を含めたすべての階層に大きな影響を与えました。この飢饉の経験は、日本の歴史において、食糧問題と社会の安定がいかに密接に関わっているかを教訓として残しました。

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