[出来事] 長篠の戦い(ながしののたたかい)

長篠の戦い:鉄砲が戦国時代の常識を変えた日

長篠の戦い(ながしののたたかい)は、1575年(天正3年)に、織田信長・徳川家康の連合軍と、武田勝頼(たけだ かつより)が率いる武田軍の間で戦われた合戦です。この戦いは、**「鉄砲三段撃ち」**という戦術が大きな効果を発揮し、日本の戦国時代の戦い方を大きく変えたことで知られています。

合戦の背景

武田信玄(たけだ しんげん)の死後、その跡を継いだ武田勝頼は、父の拡大路線を引き継ぎ、三河国(現在の愛知県東部)の徳川家康の領地へと侵攻しました。武田軍は長篠城を包囲しましたが、長篠城を守る徳川軍の兵士たちは頑強に抵抗しました。

家康は、この危機を打開するため、同盟関係にあった織田信長に援軍を要請しました。信長は、3万の軍を率いて長篠に駆けつけ、武田軍を迎え撃つ準備を始めました。


鉄砲と馬防柵:新時代の戦術

信長は、武田軍の強力な騎馬隊に対抗するため、革新的な戦術を考案しました。

  • 馬防柵(ばぼうさく)の設置:武田軍が攻めてくる丘の麓に、馬の突撃を阻むための柵を何重にもわたって設置しました。
  • 鉄砲隊の集中:当時の日本の戦いでは、鉄砲はまだ補助的な武器でした。しかし、信長は3,000丁もの鉄砲を揃え、この馬防柵の背後に配置しました。

戦いの展開

1575年5月21日、武田勝頼は、武田軍最強とされる山県昌景(やまがた まさかげ)らの反対を押し切り、織田・徳川連合軍に総攻撃を仕掛けました。

しかし、武田軍の騎馬隊は、馬防柵に阻まれて身動きが取れなくなりました。その瞬間、信長が指示した鉄砲三段撃ちが火を吹きました。これは、鉄砲を3つの部隊に分け、交互に連続して発砲する戦術です。これにより、鉄砲の弱点であった再装填の時間をなくし、常に連続して銃弾を浴びせることが可能になりました。

この猛烈な鉄砲の集中砲火と、馬防柵の前に立ち往生した武田軍の兵士たちは次々と倒れ、壊滅的な被害を受けました。武田軍の猛将、山県昌景や馬場信春(ばば のぶはる)らが討ち死にし、武田軍は総崩れとなりました。


戦いの影響

長篠の戦いは、日本の歴史に大きな影響を与えました。

  • 武田氏の衰退:多くの重臣を失った武田氏は勢力を大きく失い、この後、滅亡への道をたどることになります。
  • 戦国時代の転換点:この戦いによって、騎馬隊を中心としたこれまでの戦術は通用しなくなり、鉄砲などの新しい武器を効果的に使うことが重要になりました。この戦いは、日本の戦国時代の終わりを告げる象徴的な戦いとなりました。

まとめ

長篠の戦いは、織田信長の革新的な戦術と、時代遅れとなった武田軍の戦術が激突した戦いです。この戦いは、日本の歴史の転換点の一つとして、現代まで語り継がれています。

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