本能寺の変(ほんのうじのへん)

本能寺の変

本能寺の変は、天正10年(1582年)6月2日、京都の本能寺で、家臣である明智光秀が主君の織田信長を襲撃し、自害に追い込んだ事件です。この事件により、天下統一を目前にしていた信長が命を落とし、戦国の世は大きく動きました。


事件の背景

天正10年(1582年)当時、織田信長は天下統一を目前にしていました。甲斐の武田勝頼を滅ぼし、残る敵は毛利氏のみとなっていました。信長は、中国攻めを任せていた家臣の羽柴秀吉の援軍要請に応じるため、少数の供回りとともに京都の本能寺に滞在していました。

一方、信長に中国攻めへの出陣を命じられていた明智光秀は、丹波亀山城で軍備を整え、「敵は本能寺にあり!」と兵に告げ、信長を襲撃することを決意しました。光秀が謀反を起こした理由は、今もなお多くの説があり、定かではありません。信長に日頃から冷遇されていたこと、長宗我部氏との外交問題、あるいは朝廷との関係などがその理由として挙げられています。


事件の経過

6月2日未明、明智光秀の軍勢は本能寺を包囲しました。信長はわずかな家臣や小姓たちとともに応戦しましたが、多勢に無勢であり、本能寺に火を放ち、自害しました。享年49歳でした。同時に、京に滞在していた信長の長男、織田信忠も二条新御所で明智軍に攻められ自害し、織田家嫡流は途絶えました。


事件の結果とその後

信長が討たれたことを知った羽柴秀吉は、毛利氏との講和を急いで成立させ、京都へと引き返しました。いわゆる「中国大返し」です。秀吉は、山崎の戦いで明智光秀を破り、光秀は逃亡中に農民に討たれました。

この事件により、織田信長が築き上げた政権は崩壊しました。信長の後継者争いは、清洲会議を経て、信長の三男・織田信孝や信長の弟・織包信雄らが対立する中、光秀を討った羽柴秀吉が信長の後継者としての地位を確立しました。これにより、天下統一は秀吉へと引き継がれていくことになります。

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