[人物] 後醍醐天皇(ごだいご てんのう)

後醍醐天皇

後醍醐天皇は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した第96代天皇です。武家政権である鎌倉幕府を倒し、天皇中心の政治を復活させようとした「建武の新政」で知られています。彼の生涯は波乱に満ちており、日本の歴史を大きく動かしました。


後醍醐天皇の即位と鎌倉幕府への反発

後醍醐天皇は、1318年に即位しました。当時の政治は、鎌倉幕府と、朝廷内にあった院政(上皇による政治)が複雑に絡み合っていました。後醍醐天皇は、武家政治を排除し、天皇による直接的な政治を行うことを目指しました。これは、鎌倉幕府からすれば許容できない動きであり、両者の対立は深まっていきました。


討幕運動と隠岐への配流

後醍醐天皇は、側近たちと協力して鎌倉幕府を倒す計画を密かに進めます。しかし、計画は事前に発覚し、1331年に挙兵するも敗北。後醍醐天皇は京都を追われ、隠岐(現在の島根県)に流されました。これは、天皇が島流しにされるという異例の出来事でした。

しかし、後醍醐天皇は諦めませんでした。流刑地でも討幕の意志を固め、1333年に隠岐を脱出します。この頃には、全国各地で天皇に味方する武士たちが立ち上がり、新田義貞が鎌倉を攻め落とし、足利尊氏が京都の六波羅探題を陥落させ、ついに鎌倉幕府は滅亡しました。


建武の新政

鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇は京都に戻り、建武の新政を始めました。これは、武士の力を借りず、天皇を中心とした政治体制を築こうとするものでした。公家や寺社を優遇し、武士の所領問題にうまく対応できなかったことから、武士たちの不満が徐々に高まっていきます。


南北朝時代の始まり

建武の新政に不満を募らせていた足利尊氏(あしかがたかうじ)は、ついに後醍醐天皇に反旗を翻します。尊氏に敗れた後醍醐天皇は、京都を脱出して吉野(現在の奈良県)に逃れ、南朝を樹立しました。一方、尊氏は京都に別の天皇を擁立し、北朝と室町幕府を開きました。こうして、後醍醐天皇が吉野に開いた南朝と、足利尊氏が京都に開いた北朝が対立する、およそ60年にわたる南北朝時代が始まったのです。


後醍醐天皇の功績と後世への影響

後醍醐天皇は、理想主義的で頑固な性格でしたが、強い意志と行動力で鎌倉幕府という強大な武家政権を滅亡させたことは大きな功績でした。建武の新政は短命に終わりましたが、武家中心の世の中に対し、天皇の権威を示そうとした彼の挑戦は、日本の歴史に大きな足跡を残しました。彼の死後も、南朝はしばらくの間、北朝と対立を続けました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました