賤ケ岳の戦い:信長の後継者争いを決した大合戦
賤ケ岳の戦い(しずがたけのたたかい)は、1583年に近江国(現在の滋賀県)の賤ヶ岳で起こった合戦です。織田信長の死後、天下の覇権をめぐって、重臣である羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と柴田勝家が争い、秀吉が勝利したことで、その後の日本の歴史を決定づけました。
戦いの背景
1582年、信長が本能寺の変で家臣の明智光秀に討たれると、天下は再び混乱に陥りました。信長の統一事業を引き継ぐべく、筆頭家老の柴田勝家、中国攻めから引き返した羽柴秀吉、そして信長の三男・織田信孝などが後継者の座をめぐって対立します。
清洲会議(きよすかいぎ)で、信長の孫である三法師(さんほうし)が後継者と決まりますが、実権は秀吉が握り、これに不満を持った勝家や信孝との対立が深まっていきました。
賤ヶ岳での激突
勝家は、信孝や滝川一益(たきがわ かずます)らと手を組み、秀吉包囲網を築きます。1583年、両軍は賤ヶ岳で激突しました。この戦いは、秀吉が北陸の越前(現在の福井県)まで攻め入った勝家に対し、近江国に引きつけて決戦を挑んだものでした。
当初は勝家軍が優勢でしたが、秀吉の巧みな戦略と、配下の将である福島正則や加藤清正ら「賤ヶ岳の七本槍(しちほんやり)」の活躍によって戦況は一変します。特に、秀吉の機動力が勝敗を分けました。大垣城で対峙していた秀吉は、勝家軍の動きを察知すると、大雨の中を一気に賤ヶ岳へ向かい、勝家軍の不意を突きました。
戦いの結果とその後
戦いは、秀吉軍の圧倒的な勝利に終わりました。敗北した勝家は、居城である北ノ庄城に逃げ帰り、妻であるお市の方と共に自害して果てました。
この勝利により、秀吉は織田信長の後継者としての地位を決定的にしました。彼は、その後、小牧・長久手の戦いで徳川家康と戦い、小田原攻めで北条氏を滅ぼすなど、天下統一の道を突き進むことになります。賤ヶ岳の戦いは、日本の戦国時代の終結を告げる、重要な転換点となりました。

コメント