山崎の戦い:明智光秀の天下は三日で終わった
山崎の戦い(やまざきのたたかい)は、1582年(天正10年)に、織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と、信長を本能寺の変で討った明智光秀が戦った合戦です。この戦いは、光秀が信長を討ってからわずか11日後に起こり、光秀の天下を終わらせた決定的な戦いとして知られています。
本能寺の変、そして中国大返し
1582年6月2日、明智光秀は京都の本能寺に宿泊していた織田信長を急襲し、信長を自害に追い込みました。この突然の事件は、日本の戦国時代に大きな衝撃を与え、天下統一を目前にした信長の死によって、新たな覇権争いが始まります。
当時、中国地方で毛利氏と戦っていた秀吉は、信長が討たれたという知らせを聞くと、ただちに毛利氏と和睦を結び、急いで京都へ引き返しました。この**「中国大返し(ちゅうごくおおがえし)」**と呼ばれる電光石火の行動により、秀吉はわずか10日で200キロメートル近い距離を移動し、光秀を迎え撃つ準備を整えました。
一方、光秀は、信長を討った後、味方を増やすために大和の筒井順慶や細川藤孝に協力を求めました。しかし、彼らは日和見(ひよりみ)を決め込み、光秀に加勢することはありませんでした。
天王山の攻防
1582年6月13日、秀吉軍と光秀軍は、京都の南西にある山崎という地で激突しました。この地は、京都へ向かう交通の要衝であり、特に天王山という小高い丘を制することが戦いの勝敗を分ける鍵となりました。
「天下分け目の天王山」という言葉が生まれたように、秀吉は天王山の重要性を理解しており、開戦前にこの山をいち早く占拠しました。光秀軍は、天王山から下りてくる秀吉軍の攻撃に苦戦し、次第に劣勢に立たされます。
さらに、秀吉軍は、信長に仕えていた他の武将たち(池田恒興など)も合流し、兵力で光秀軍を圧倒しました。激しい戦闘の末、光秀軍は総崩れとなり、光秀は戦場から逃走しました。
光秀の最期
戦いに敗れた光秀は、わずかな家臣を連れて坂本城へと逃げようとしますが、その途中で落ち武者狩りの農民によって殺害されたと伝えられています。この光秀の死によって、彼の天下は、本能寺の変からわずか11日で終わりました。
まとめ
山崎の戦いは、秀吉がその才覚と行動力で天下の覇権を握るきっかけとなった戦いです。この戦いでの勝利によって、秀吉は信長の後継者としての地位を確立し、天下統一への道を歩み始めることになります。

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