鎌倉時代
鎌倉時代は、1192年に源頼朝が鎌倉に幕府を開いてから、1333年に鎌倉幕府が滅亡するまでの時代です。武士による政治が本格的に始まり、日本の歴史に大きな転換点をもたらしました。
鎌倉幕府の成立
源平合戦で勝利した源頼朝は、朝廷から征夷大将軍に任じられ、現在の神奈川県鎌倉に幕府を開きました。これは、武士による初の全国政権であり、政治の中心が京都の公家から鎌倉の武士へと移ったことを意味します。
- 幕府の組織頼朝は、将軍を頂点に、政治を行う政所(まんどころ)、軍事や警察を担う侍所(さむらいどころ)、裁判を扱う**問注所(もんちゅうじょ)を設置しました。また、全国に守護(しゅご)と地頭(じとう)**を配置し、治安維持や荘園・公領の管理を任せました。これにより、武士の支配体制が全国に浸透しました。
執権政治と承久の乱
頼朝の死後、源氏将軍の血筋は途絶え、頼朝の妻である北条政子(ほうじょうまさこ)の一族、北条氏が実権を握るようになります。彼らは**執権(しっけん)**として、将軍を補佐する立場で政治を行いました。
- 承久の乱後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は、武士の力が増大するのを嫌い、鎌倉幕府を倒そうと挙兵しました。しかし、北条政子が御家人たちを説得したこともあり、幕府軍が勝利しました。この承久の乱の結果、朝廷の権威は大きく失墜し、幕府の支配権はさらに強固なものになりました。
- 御成敗式目北条泰時(ほうじょうやすとき)は、武士のための法律である**御成敗式目(ごせいばいしきもく)**を制定しました。これは、武士の慣習に基づいたもので、武士社会の安定に貢献しました。
元寇と鎌倉幕府の衰退
13世紀後半、モンゴル帝国のフビライ・ハーンが、日本に服属を求めてきました。日本がこれを拒否すると、元軍は二度にわたって日本に攻めてきました。これを**元寇(げんこう)**といいます。
- 文永・弘安の役1274年の文永の役と、1281年の弘安の役では、日本の武士たちは激しい抵抗の末、嵐(神風と呼ばれました)にも助けられ、元軍を撃退することに成功しました。
- 御家人の不満元軍との戦いには勝利したものの、大きな領地や報酬を得ることができなかった御家人たちの不満が高まりました。この不満が、幕府の権力を揺るがす原因となっていきました。
鎌倉時代の文化
鎌倉時代は、武士の台頭を背景に、力強く質実剛健な文化が生まれました。
- 武士の文化武士の生活や戦闘を描いた絵巻物が盛んに制作されました。また、質素を重んじる禅宗が武士の間で広まりました。
- 新仏教この時代には、誰もが救われることを説く新しい仏教(浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗など)が広まりました。特に、一遍(いっぺん)の踊り念仏は、庶民にも広く受け入れられました。
鎌倉幕府の滅亡
度重なる戦乱や幕府への不満が募る中、後醍醐天皇が討幕を呼びかけると、足利尊氏や新田義貞といった有力な武将たちが次々と挙兵しました。1333年、新田義貞が鎌倉を攻め落とし、鎌倉幕府は滅亡しました。これにより、武士による支配は一時的に終わり、朝廷中心の建武の新政が始まります。