南北朝時代

南北朝時代

南北朝時代は、1336年から1392年まで、日本に二つの朝廷(南朝と北朝)が並立した時代です。武士による支配が定着する中で、朝廷の権威を巡る激しい争いが繰り広げられました。


南北朝の成立

鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は、天皇を中心とする「建武の新政」を始めます。しかし、武士の不満が高まり、これに反発した足利尊氏が、後醍醐天皇に反旗を翻しました。

  • 南朝と北朝尊氏に敗れた後醍醐天皇は、京都から吉野(現在の奈良県)に逃れ、自らの朝廷を南朝と称しました。一方、京都に留まった尊氏は、別の天皇を擁立し、これを北朝としました。これにより、日本に二つの朝廷が並立する南北朝時代が始まったのです。
  • 足利氏と室町幕府尊氏は北朝を正統な朝廷とし、1338年に征夷大将軍に任じられ、京都に室町幕府を開きました。これにより、武家政権は再び確立されます。

争乱と社会の変化

南北朝時代は、全国各地で南朝方と北朝方の武士たちが激しく戦いました。この争いは、約60年にわたって続きました。

  • 下克上の風潮度重なる戦乱の中で、主君に忠実な武士もいれば、自分の利益を優先して寝返る者も現れました。これにより、実力のある者が支配権を握る「下克上」の風潮が強まりました。
  • ばさら華美な服装や派手な振る舞いを好む風潮が、特に守護大名の間で流行しました。これは「ばさら」と呼ばれ、既存の秩序や権威を無視する気風を象徴しています。

南北朝時代の終焉

南朝と北朝の対立は、室町幕府の3代将軍足利義満の時代に終止符が打たれます。

  • 南北朝の合一義満は巧みな外交手腕を使い、弱体化した南朝に北朝への帰順を促しました。1392年、南朝の後亀山天皇(ごかめやまてんのう)は、北朝の後小松天皇(ごこまつてんのう)に三種の神器を譲渡し、南北朝は合一しました。これにより、日本の朝廷は一つに戻り、南北朝時代は終わりました。

南北朝時代の文化的特徴

この時代は、武家社会の価値観が浸透し、新しい文化が生まれました。

  • 文学南朝の忠臣として知られる北畠親房(きたばたけちかふさ)は、**『神皇正統記』を著し、天皇の正当性を主張しました。また、古典文学では『太平記』**が有名で、南北朝の動乱を題材にした軍記物語として、広く読まれました。
  • 武家文化の発展建築や美術においても、武家社会の質実剛健な精神が反映され、後の室町文化へと引き継がれていきました。
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